2012年8月31日金曜日

ネコパコ事務室だより

人には忘れられない場所というものがそれぞれあるでしょう

私にとってその一つがこれ
京都四条河原町の東華菜館

両親と5才年上の姉と私
親戚のおじさんと 久しぶりに会う東京の叔母
それに加えてでっぷり太った胡麻白頭の
今までついぞ見たことのないおしゃれなチェックの上着のおじいさん
私のおめかしの芥子色の新しい靴はちょっとぷかぷかだったが
晴れがましかった

上階へ上がるためのエレベーターのドアの大きさ
きっと私はポカンと口を開けて半円形の行き先表示を見ていただろう
ガラスのドア越しに各階を通過してはるか遠い所へ運ばれた

目にするものすべてが物珍しく不思議に満ちてずっしりしていた

大きな魚が丸揚げになってテーブルの真ん中にあった
母は熱心に作り方をおしゃれなおじいさんに教えてもらっていた
「ビールの美味しいつぎ方はね…」などという話も交えて
父もいつになく上機嫌だった

運ばれた料理がテーブルが目の前をぐるぐる回る
私は目がまわりそうだった
ついさっきまで渡り廊下のある大きな静かな建物で見てきた
あの沢山の焼物を作ったのがこのおじいさんだということが分かった
東京の叔母さんの雇い主だということも分かった

かの食の巨匠と言われる北大路魯山人と丸テーブルで
鯉の丸揚げあんかけを食べた場所がここ
私のはじめての異文化体験だった その時3才

  

それから15年後大学生活を京都で過ごすことになった時
この建物をバスの中から見かけ、覚えてないのに覚えていた
ドキッとした
でも中に入ってみたいとはついぞ思わず9年間が過ぎて
京都を離れた

先日 姉と京都に遊んだ
先斗町の歌舞練場前の料理屋で昼食をすませ
四条に向かって南下
小径が途切れた途端
目の前に現れた建物
夏の名残の青と雲を背景に昔のまま立っていた
周辺はずいぶん変わったが、懐かしい場所だった

姉と二人で懐かしい記憶を話し合えた
共有出来る体験を持つ人は大切にしたいとおもった


我が家の子ども達にとっての共有体験ははたして何だろうかと考えた
お定まりの家族旅行
何度もおばあちゃんちで食べた料理…
肉じゃが 黒豆 茶碗蒸し 豆腐と揚げの味噌汁 カレーライス…

母もだんだん衰えて人のために食事を作ることが最近負担になって来た
哀しいかな あんなにも人に食べさせることに熱意を持っていたのに

思い出すよすがに 朝ご飯の時に必ず出ていた
宮内家お気に入りの古い芭蕉皿を譲ってもらった

もう母の料理を食べることをしない哀しい決心と
子どもが幼かった日々の家庭のにぎわいと
私たちは少しずつ過去を流しながら 自分も流れて行く

♡ 松前で初めて見つけた土佐清水のゴマ鯖 ♡
鮮度がうれしく購入
早速 刺身と幼い頃の大好物しめ鯖を作った
キトキト光った脂が美味しかった
ロナもめざとくやって来た

しめ鯖好きはガマに遺伝したみたい
などと思いつつライネケと二人で晩ご飯を食べた

2012年8月23日木曜日

おめでとう

弟に関してはやはりこのイメージが抜けません。

「母親にとって、子供はいくつになってもこども」
というけれど、誰しもいつかは自立し、
ひとりその足で歩まねばなりません。

「可愛い子には旅をさせよ」
とは子の願いだと常々思うのです。
いろんなことに目をつぶり、潔く送り出すのも大切なことではないでしょうか。

などと、徒然に思うさまは実に無責任ですが…がまですから。

誕生日おめでとう。
これからは誰のものでもない、自分の人生のためになにをすべきか、
真剣に考え、願い、走ってほしい。

                         わるい兄げこ

2012年8月22日水曜日

がまのおでかけ

まずは、こうるさい らっきょうさぎ を冷蔵庫に閉じ込めます。
がまがえる!がまがえる!お部屋の掃除がまだ済んでいないよ!むきい!
どすんどすんっ! # & % ! = * + ! !
だまらっしゃい。

ぶるるん。
いざ雲の国へ!
車は独逸製に限るね!

乗ってく? 
乗ってく。
左様であるか。

かくしてオモシロイようでそうでもない、
特筆すべきものなきようで、また、そうでもない、
ひと夏の旅が始まったのであった。


2012年8月20日月曜日

ライネケ 久しぶりに釣る <ライネケ>

ライネケは、小学校時代は、喘息持ちのために、学校を休んで、よく独りで寝て暮らしたせいかもしれないが、集団の遊びが苦手で、その頃、少年たちが盛んにやっていた草野球にも加わらず、元気なときは、学校から帰ると、ランドセルを放り投げて、竹で編んだ石箕(いしみ)とバケツをぶら下げ、ゴム長またはゴム草履を履いて、近所の川に出かけては、魚とりをする毎日だった。もちろん、釣り竿を出して、釣ることもあったが、待っているのは嫌いな性格で、じゃぶじゃぶ川に立ちこんで、岸辺の水草の辺りに石箕を突っ込んで、足で魚を追い出して、すくい上げる、というのが専らのやり方だった。

今でも、往診の行き帰りに、近所の川の近くを通るときは、流れの中を何か泳いでいないか、ついつい、立ち止まる。川面の照り返しを避けながら、じっと目を凝らすと、何かの影がよぎる瞬間がある。生の揺らめきに接するとき、人の心も揺らめく。


青いグラスファイバーの竿と
青いちっちゃなリール

お盆の頃、Sora-Gama君が、我が家に帰って来ていたのだが、釣り好きの彼が、ライネケに、小さなリール付きの竿と疑似餌針の付いたのサビキ針を置いて行ってくれた。ライネケが、風のないとき、アクアミューズで、ただ漂っているのもばからしいから、釣りでもして、晩飯のおかずを持って帰れるといいかもしれんなどと、うっかり言ってしまったせいだろう。


先端におもりがつき、
オキアミ風の疑似餌の付いた針が一定間隔で付いたハリス
こいつが目の前を上下すると
塩屋の浜の沖合の海底近くのアジやらが食いついて来て、
ずらりと並んでつり上げられるという寸法なんだが・・・。
タイなんか釣れるとええなあ。うふふ。


Sora-Gamaが、身銭を切って、置いて行ってくれたのだから、彼をがっかりさせないためにも、何もしないわけにはいかん。というわけで、18日土曜日午後、外来が終わったあとで、16時過ぎから、松前の浜に行き、風は弱かったのだけど、沖に出て、釣り糸を降ろしてみた。潮の流れがかなり強く、5本程付いた針を、真下に降ろして、上げ下げするようにと彼が言い残してくれたんだけど、どんどん潮に流されて行くみたいで、ちっとも理屈通りには行かない事が判明した。

全然、期待もせず、揺れる船の上で、
もつれた糸に苦労しながら、ラダーを避けて、おもりを放り込み、リールのストッパーを解放する。繰り返すこと数投。

おや、何かに引っ掛かっちゃったみたいだ。なんてこった。リールを巻き上げて行くと、なんと、10cm程の小魚がかかっている。まさか。びっくりしたよ。

結局、雑魚が2匹釣れた。ほんの5cm程のもいれると都合3匹。ちっちゃいのも、生意気にも、ちゃんと口に針がかかっていた。
「こんなしょうもない小魚でも、釣れると、やっぱりうれしいもんだね。」
周囲に誰もいない海上で、独り言を言ってしまった

アクアミューズで遊んだあと、
艇を陸揚げして、潮水で艇に付いた砂を洗うための
プラスチックバケツに入れた獲物
一匹は途中で弱ってしまった。
背中の模様から見てサバの子どもか?
こんな小魚は逃がしてやれよ、と言われるかな。
今日は特別だ、というわけで、食っちまった。
ライネケの体の中で生きろ。

こいつはエソだそうだ
これから、唐揚げにされるんだが、まだピンピン跳ねていた
淡白でうまかった。

かえしの付いた釣り針はうっかり突き刺すととても厄介だ。あの小さな小舟の中で、自分が釣られないように、糸針竿を扱うのは大変だった。多分、アクアミューズは釣り船には向いていないのだろう。しかし、それなりに面白かった。

夕暮れの渚で、ライネケは、艤装を外し、アクアミューズを潮で洗った。引き上げ時だ。

盆過ぎの松前の浜では、土建屋だかやくざだか知らないが、入れ墨した兄ちゃんたちが、テントを張って、派手めのお姉ちゃんたちやら、やたら騒がしい子ども達が走り回っていた。その隣を通って、小さな台車に舟の舳先を乗せて、傾斜した砂浜を押して、舟を道に出すための柵の隙間が連中の車で塞がれていたので、苦心惨憺して、艇を道に運び出し、車に積んで帰った。

帰宅してただちに、ちっぽけな二匹の魚を、唐揚げにして食べてしまった。ロナにも、少し分けてやったら食べた。昔、倉敷時代に、Sora-Gamaが釣って来たウナギを近所の魚屋にさばいてもらい、蒲焼きにして食ったのを思い出した。あれはうまかったよ。


ライネケのつまらない一言に反応して、早速、竿を用意してくれたSora-Gama君には感謝しなければいけないね。もうひと工夫して、また、アクアミューズで釣ってみるつもりだ。

この報告に、Sora-Gama君も喜んでくれただろうか。子ども達は子ども達なりにライネケに何かしてくれるのだし、ライネケはライネケなりに彼らに答えているということなのだろう。人間関係というのは、お互いのやりとりの努力があってこそ成り立つのだろうが、しばしば、片思いに終わることもあり、人間は言葉の生き物なので、言葉を使わなければ、思いが十分に伝わらないことも多い。しかも、言葉は本質的に不完全だ。

生命の輝きが失われて行く瞬間。
生と死の間に境界はあるのか、
ないのか。
ありていに言って、ライネケのことは、余りかまってくれなくていいんだ。孤独死の報道をよく耳にするが、無視され放置されるのならともかく、いろいろ気を使ってかまってくれなくても、小さい頃からライネケは自分一人の完結した世界の中で遊び慣れて来たし、これから一人で生きて行くというだけの強靭さを持ちたいと思っている。

子ども達に対して、何かしてやったという気持ちもない。何かしてほしいと思うこともない、と思うように努力している。育つ過程で、ああなってほしい、かくあってもらいたい、ということはあったが、もう、立派な青年となった子ども達に、今更言うようなことでもないだろう。あえて言えば、ただただ、優しくて心の深い人間として生きてほしいだけだ。

逆に、ライネケに何かしてやったのに、分かってない、という不満があるなら、それは誠に申し訳ないというしかない。そういう意味では鈍感なのだろう。ライネケは、そういう世間並みの誠意とか、心遣いとかいったものを、余り気にしないで育ったせいか、世間知らずで、常識知らず、礼儀知らずのまま、歳をとってしまった。どうしようもないし、どうしようとも思わない。

まだ、わずかに明るい西の夕空
月が昇って来た。

ツクツクボウシの鳴き声が聞こえるようになり、ネコパコは、すでに、どこかでヒグラシの声も聞いたと言う。日射しは、相変わらず強いが、昨日今日と何となく過ごしやすくなった気がする。

今年の夏は早く終わるかもしれない。

2012年8月14日火曜日

末っ子君の行方<日本駐在特派員ライネケ>8/19(日)完結

末っ子君ことYuki君が、今どこにいるって?
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<7/17>:日本脱出
<7/20>:ジャイプル在
旅は順調、安心せよと。
次は、アグラに向かうと。
<7/22>:デリー在
インドで世話してくれるSさんに、電話がかからないと言って来た。
ライネケも焦って、I氏が教えてくれた、電話番号で国際電話したら、何やら、あとでまた掛けろ、と言ってるみたいだ。メールアドレスに、メールを書いて送ろうとしたら、アドレスが無効だと言って来た。アドレスの一部のスペースをなくして、発送したら、向こうから返事が来た。どうやら、アドレスが間違っていたみたいだ。おそらく、電話もインド国内での掛け方を間違えたのだろう。
末っ子君は、今夜は、日本人だらけのホテルに一泊120円で泊まるらしい。
とにかく、何とかなりそうだということで、あとは末っ子君、頑張ってくれ。
(2012/07/23 記)
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<7/24>:デリー在
どうやら、Sさんと会えたと言って来た。
とっくに連絡が取れて、会えたものと思っていたら、24日が終わる直前になって、会えたと、やっと連絡が来た。
心配させやがって。
27日からは、ヴァラナシ(昔風に言うとベナレス)に向かうらしい。
(2012/07/24 記)

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<7/29>:ヴァラナシ在
ヴァラナシ(昔風にいうと、ベナレスのことかな?)のホテルで無事生活しているそうだ。
「インドは完全に雨期で、雨続きですが、それもまた良いものです。」
という、なかなか味な感想だよ。
(2012/07/30記)

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<8/4>:ヴァラナシ在
元気にしているそうだ。ご飯がおいしいんだって。
精進しますって言うんだが、何を精進するんだか。ひょっとして、インド風精進料理を食べてるっていう意味じゃないだろうな。まさかね。
停電が日常的になっていて、むしろ、ほとんど支障を感じない程なんだって。8/10からヴァラナシを出て、カジュラホ近くのマホバという町に行く予定らしい。
とにかく、元気に、色々体験しているようだ。なかなか、やるじゃないか。えらいな。ライネケは、正直に、そう思うよ。(2012/08/04記)

こうして、彼の動向、所在、安否を、ブログの形で、家族に報告しているが、かまわなかったか?とかれにメールを書いたら、彼も時々見ているのだそうだ。インドは、日本と変わらぬ暑さだそうだ。Haruno君に 伝えてくれという返事だった。2012/08/05記


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<8/13>:デリー在
ヴァラナシ方面に行っていたが、またデリーに帰って来たそうだ。
さらに三日間程、安宿に泊まって、インド在住のSさんの世話になるそうだ。
インド滞在も、残り一週間を切り、いればいるほど、インドという国が良いところだと思うようになって来たと言う。
物売りは人を騙すし、こじきはしつこいが、それとは全く関係のない所にこの国のよさがあるのだと彼は言う。
インド人、韓国人、中国人、香港人、日本人の友達が沢山できたそうで、ゆっくり楽しんで帰るつもりなんだと。
2012/08/14記


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<8/17>:デリーからバンコクへ向かう
8/17深夜24時前に、メールで言って来た。
まもなく、バンコクに向けてフライトする。
日本に着いたら、電話連絡すると、いうことだ。
成田着は19日19時過ぎ予定。
とにかく、無事に帰って来てもらいたいね。
土産話が楽しみだ。
2012/08/18記


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<8/19>:成田到着
本日日曜日夜20時50分頃、成田到着と電話連絡有り。
大体元気だが、疲れているので、今日は帰国の報告のみ、と。

どうやら、末っ子君のインド旅行は、無事終了したようだ。
いろいろあったようだが、土産話は彼の口から聞きたいもんだ。
楽しみにしている。

とにかく、お帰り、末っ子君。

以上で、「末っ子君の行方」を終了する。
(2012/08/19記)

2012年8月11日土曜日

カブリオの贈り物 <ライネケ>

29年間、キツネコ家とともにあって、家族の思い出を載せて走ってくれたゴルフカブリオが、多分、置き土産ということなのだろうか、後継者を残して去った。
ルポ君が我が家にやって来た。

フォルクスワーゲン ルポ GTI 2004年製
ちょっとずんぐりむっくりだけど。

丸目のフロントライトが愛嬌があっていい。

「む・・69」だったカブリオの後がまだからね。
「むふっ・・・69」というわけだ。
ちんまりした後ろ姿

前後長は、日本の軽四程度。
カブリオより30cm短い。
横幅、高さはカブリオより数cmだけ長い。
エンジンフード、両フロントフェンダー、両側ドアーが
アルミニウム製で軽量化しているらしくて、
ぶつけたら、板金できなくて、交換になるんだって。
お高くつきますぜ、旦那。

中央出しの二本マフラーがちょっと挑発的

カブリオも小さかったけど、軽四輪よりも小さいラゲッジスペース

後ろ席は2座席だけ。
窮屈じゃないけど、ちょっと立ち気味のシート。

やたら大きなドア
前にスライドして倒れる前座席のおかげで
後ろ席の乗降は楽

スタンダードルポは1.3L  SOHCだけど
ルポGTIは1.6L DOHCに載せ変えてあって
エンジンルームはエンジンだけでぎっしり
バッテリーも後ろに移動

まとまりのよいメーターパネル
中央のアナログ時計が見やすくてよい
カブリオはオートマチックだったけど、
ルポGTIは6速マニュアルトランスミッション
なぜだか、シフトノブにはオーバートップの6速目が書いてない
不細工だからかな?
忙しいよ。両手、両足とも。
なんとまあ、カーナビゲーションもETCも付いてる!


キツネコ家にようこそ。
末永く付き合いたいもんだよ。

2012年8月9日木曜日

夏休み

がまがえる、なにしてるの?
…うむ。明日から出かけるでな。
どこへゆくの?
あの雲の国へいくのだよ。
 どこへゆくか決まってないんだね。
…そういうことは後から考えるもんだ。

がま
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がまが履くと、どんな靴でも最終的には粗大ゴミになる。

2012年8月4日土曜日

ネコパコ事務室だより

連日の猛暑日

季節労働者よろしくライネケは(幸い)忙しい

庭の葡萄がそれなりに色づいて来て収穫が楽しみだ…

こがね虫が饗宴をひらき葉っぱはずいぶん傷んだ
そして…
やっぱりな…

心を鬼にして摘果10袋にしたが、いつのまにか
金網の中に引き込んで袋掛けした三袋だけになっている

ご近所の誰かさんが今年も早々もいでいった
……
多分まだ熟していなかっただろうに…
せっかくの葡萄を美味しく食べてもらえず残念なことだ

そ れ に し て も 育ちの悪い奴は嫌いだ

2012年8月1日水曜日

さようなら、カブリオ <ライネケ院長>

それは、あっという間の出来事だった。



2012年4月30日の夜、ライネケが運転席、ネコパコが助手席、Sora-Gamaが後ろ席に乗って、例のごとく、椿湯に入って帰って来る途中、石手川の土手の上、永木橋の交差点を青信号で通過しつつあった時、若い女の子が運転する高知ナンバーの軽四輪が左から赤信号を無視して突っ込んで来た。

 左から直角方向に、左前輪より少し前に衝突された。後輪を軸にして、右方向に振られる形で直撃されたので、ダメージは、運転席より前方のフレーム、エンジンと前輪ユニットを囲む部分が、平行四辺形に変形する形でショックが吸収され、運転席以後の2/3は無傷で済んだみたいだ。


もう一瞬あとだったら、前左でなく、左ハンドルの運転席を、真左から直撃されることになり、カブリオは前後輪で踏ん張って、くの字型に変形し、運転席のライネケ、その右の助手席のネコパコは、無傷でいたとは思われない。実際は、ネコパコが左膝、左肩を傷めたので済んだのは、不幸中の幸いだった。ライネケはというと、オートバイで転け慣れているから、まあ、こんなもんでしょう。元気だよ。Sora Gama君は、まだ滑走路の上にいたので、戦歴に傷はつかず、元気だ。とにかく、車内に閉じ込められて、ボディ切断して、引っ張り出されて、骨盤骨折・内臓破裂なんていうことにならなくてよかった。


後ろ座席に詰め込まれた子ども達が、後部座席からフロントグラスを通してみてきた風景も見納めだ。


去年はSora Gama君とBen君を乗せて、はるばる九州まで行ってくれた。最後の瞬間は、Sora君が乗っていた。
パワーステアリングがなくて、とてつもなく重いハンドル。手回しのウィンドウ。縫い目の切れたソフトトップ。壊れたエアコンディショナのコンプレッサー。
ジウジアーロのデザインによる、かっちりと角を切ったボディと丸目の前照灯が潔い。



ヴォルフスブルグのフォルクスワーゲン社の生産ラインから出たゴルフ一型が、ドイツのカロッツェリアであるカルマン社に運ばれて、トップを切り取られ、ボディに補強を入れて、塗装され、ソフトトップを架装されて出来上がった。
Cabrioの下には、KARMANNのバッジが誇らしい。おいらはね、スタンダードのワーゲンゴルフとはお育ちが違うんだよ、という証。

フォルクスワーゲン・ゴルフの一型を、と思って、京都ヤナセの滋賀営業所にゴルフのカタログをもらいに行ったら、終わりの方、見開き一杯に、この車の写真があった。まだ、オープンカーなんてほとんど見かけなかった頃だ。営業係の若い人に、「この車はなんですか?」と訊くと、恐縮しながら、「このお車は、お高うございます。」と言った。スタンダードゴルフが180万円程だったのに、このゴルフカブリオは銀色は404万円だと言われて、驚いた。


清水の舞台から飛び降りるような気持ちで、ゴルフカブリオを買った。最初の数ヶ月はローンにしたけど、結局さっさと一括で払ってしまった。以来借金したことはないよ。
わけありげだけど、たまたまもらった初年度登録のナンバープレートとオリジナルの塗装。


いつ見ても美しいと思った後ろ姿。




キーを捻れば、まだ、独特のエンジン音と、お別れのクラクションを聞くことができる。
(▲をクリックする。)








キツネコ一家の思い出を運んで、20万7122キロメートルを走った後、永眠の旅に出る。
初年度登録        1983年7月
廃車のための一時抹消登録 2012年7月28日 
享年29才

本当に、本当に、長い間、ありがとう。