2013年3月31日日曜日

また春が来て <ライネケ院長>

今日、三月が終わる。
中空中庭にも春の日射しが入って来て、次郎の木が枝葉を伸ばしはじめた。

いつも、こちらにお尻を向けてひなたぼっこしていた。

どうしても、白いものに目が行く。

 ほら、ここにも。

あそこにも。
 Chicaさんが植えてくれた花が咲いた。

自然はこんなに豊かだ。

 白色にわずかのピンクが混じるのが不思議だ。

 神は微細に宿るとは、よく言ったものだ。

妍を競うように。

つい、この間、この廃屋のトタン屋根の上で昼寝をしていた。 

何度も何度も車に押し倒されたけれど、生き延びて来たジューンベリーの花が今年はたくさん咲きそうだ。

白いものたちを見ると、不思議な感覚がわきおこる。

2013年3月26日火曜日

ネコパコ事務室だより

世間ではやたらに早い花見の季節になってしまった

春は何やかやと気持ちが落ち着かないうえに
やっぱりロナは帰らないので 落ち込む気分を紛らわせたくて
どうでもいいような単調な仕事をしてみることにした

食器の持ち数調べ
この際 ついでに写真も撮ってみるかと 
無い気合いをかけて単調に仕事をした

古伊万里かあるいはただの伊万里か
里帰りするたびに朝ごはんに出てきた芭蕉皿
とうとう もらいうけてしまった
金継がへたくそだったのが惜しまれる

仁城義勝さんの組椀
年をとって瀬戸物を手にするのがしんどくなれば
塗り椀だけで暮らすのも悪くないか
ひたすら淡々と119種類の写真を撮り 
次にエクセルで作った表にサイズと枚数を記入し画像を貼り付けた

ざっと計算してみたら食器だけで472点
やはりちょっと多いだろうか
だからそれがどうしたというのだ

ロナは何にも残さなかった…と考えると
人間のやっている事の愚かしいことよ!ではある
次に誰か欲しがってくれるのだろうか

2013年3月9日土曜日

さようなら ロナ  <ライネケ>

ロナが、帰って来ない。
2010年9月7日
裏駐車場南側塀際の植え込みで

<3月5日、火曜日、晴れ>
ロナが、朝出て、真っ暗になっても帰って来ない。数日来、ほとんど食べていない。
春まだ浅く、寒い中、どうしているのか。どこか、暖かい場所にいればいいのだが。

2011年11月21日
裏玄関扉の上で


<3月6日、水曜日、晴れ>
多分、もう、ロナは、もどって来ないだろう。
まだ寒いけど、春の息吹に包まれて、どこか、自分の心休まる隠れ家で、ひっそりと、あの世に旅立つのだろう。
滴が水面に落ちて、もとの静かな水にもどるように。
それでいいんだ、と自分に言い聞かせる。
どこかから、首の鈴の音が聞こえて来そうな気がして、耳を傾ける。
私達は、いつまで、何を、待つのだろう。


倉敷で
幼少のころ
こんなに小さかった

<3月7日、木曜日、晴れ>
やはり、ロナはもどって来ない。ロナはもう、私達の目に見えない所に行ってしまったのだと思う。
小石がここにころがり、どこかで砕けて砂になって行くように、草花がそこに生い茂り、あそこに咲き、かしこに散って行くように、ふらりと出て行き、かつて彼が出て来たどこかに帰って行ったのだろう。
ロナは、すでに、この春の大気の中にとけ込み、あまねく私達の周りにいるのかもしれない。

外は、春の光があふれ、萌え出して来た緑が目にしみる。
爛漫の春を目前に、生と死が一つのものであると感じる。
この世界はあまりにも美しい。
春の外気に胸が苦しい。
私は春に溺れて、あえぎ、咳き込み、一瞬、黒々とした生死の深淵をのぞき込む。


満天満地の春が
ほんのそこにあるというのに

神様がこの世界をお作りになったのなら、どうして、わざわざ、こんなに美しく作られたのだろう。
いつかは滅びて行くものならば、こんなに美しくする必要はなかった。
神は、あらゆるものに命をお与えになり、そして、また、お取り上げになる。
どうせ、死に、滅びて行くものなら、初めから命をお授けになるべきではなかった。
そのせいで、人々が苦しみ悩むのであれば、この世界をお作りになるべきではなかったのではないか。
人々に、喜び、悲しみ、怒り、愛し、憎む、そのような微妙で繊細で美しくも愚かしい心をお授けにならねばよかったのではないか。
神様におたずねしたい。

そう思うのは不遜だろうか。幼い頃から、この疑問を繰り返して来た。けれども、今日も、神様はお忙しいらしく、お答えを頂けそうにない。らちもない愚痴を繰り返すのは、もうよそう。
明日 
炉に投げ入れられる野の草をも
神はかく粧い給う

ロナは私に、野生と自然のありようを示してくれたのかもしれない。
ロナに野生でいてくれるよう望んだのは、他ならぬ私自身なのだった。
ロナは自由な放し飼いであったが故に、病を得、逝くことになった。しかし、それが間違っていたとは思わない。爪を抜かれた室内猫として、一生を安全に生きるのが幸せと言えるだろうか。


草花の下が好きだった

私も、ロナみたいに、草花みたいに、生い出て、咲き誇り、老い果てて、死んで行こう。
小石になって、転げ、砕けて、砂になって、散らばってしまおう。
もう、だだをこねるのは止せ。
何かが私にそう言い聞かせる。


この偉そうさを見よ
最盛時には6.8kgの立派な伊達男だった
最後は4.8kgになり、痛々しかった
それでも、最後まで美猫だった
11才の春だった

奇跡のように、ロナは、私達のもとにやって来て、十年間以上にわたって、私達とともに暮らし、ある晴れた春の日、ふいに、私達のもとを去って行った。


もう
彼の爪痕が増えることはない

後を追ったり、探したりするのは止そう。
それでいいではないか。
生きること、出会うこと、それだけでも珠玉のように貴重な瞬間なのだから。


無愛想だったが
うちの子らしかった

さようなら ロナ
ありがとう ロナ

2013年3月3日日曜日

がま 学習しない

「引き籠るのだ。がまは学習するかえるなのだ。
諸君とは一緒にしないでいただきたい。」
 などとのたもうて、掃除・洗濯・昼寝等々を済ませた土曜日。
彼は、机に向かってなにやらごそごそやっていた。

そして、翌朝、、、、、
「鱒が俺を呼んでいる!」
ぶるるんるん。
残念ながら、彼には学習能力のほかに
「3歩 歩けば忘れる」という特質も備わっている。

栃木県は日本でいちばん管理釣り場(要は釣り堀)が多い県だ。
その殆どが渓流魚の釣り場であり、年間を通して
湧水の豊富な土地ならではのことである。
半日で 3,000円という法外な料金をとる上、人が立ち並んでいるため、
スタンドプレイを好む釣り人の性質に反するところもなくはないが、
「鱒釣り」という言葉は釣りをする者にとって独特の魅力がある。

今日は寒かった。手がかじかんで竿を落としそうだった。
大物は掛からなかったが、それなりに釣れた。
今度はもっと暖かくなってからがよいね。

 それにやはり、カーティスクリークを開拓せねばならんね。
 貧乏性には、一人で隠れて竿を振る場所が必要だ。


2013年3月2日土曜日

がまぐるま へこむ

金曜日の夜、信号待ちをするがまは「らーめん」のことを考えていた。
「らーめんは、この世の中でかなり重要な位置づけをもっているな。」
「らーめんがなければ、どれほどの人が不幸になるかわからないぞ。」
「そうだそうだ。先の政権交代も実はらーめんのお陰だという話だ。」
「つまり、らーめんを食えば万事OKということだな。ようしようし。」
しかし、こんな阿呆を天の神様が見逃すはずはなかったのだ。

やつは概ね、がまがえるに対していつも厳しいめの裁量をしてきた。
特に、がまがどこかに遊びにいくとか、なにか「しやわせ」な気分でいる
とき程この傾向は強く、もはや何か偏執めいたものを感じるほどである。
たぶん「きつねの呪い」が関係していると思われるが、詳細は不明だ。

いずれにせよ、信号待ちをするがまの車の後ろに前方不注意のトヨタ車を
配置するという神業でもって、らーめんの妄想を吹き飛ばす試みは成功した。


そーかそーか、よくわかった。
がまは学習した。
さっそく実行するのである。